とぼふ日記

アニメの話など。

『マジカル・ガール』

ブログの更新はしないと言ってたけれど、今までの私を知っている方ならどうせまたやると思っていたよ、と言う人もいるでしょう。
まあ、それには返す言葉がないのですが、定期的に惰性で更新するわけではなくて、書きたくなるようなものが出てくれば、やっぱり書くんです。
だから、次はいつになるのか、分かりませんよ?

というわけで、昨日から公開の『マジカル・ガール』を観てきました。

映画『マジカル・ガール』公式サイト

kai-you.net

昨年の暮れから、その予告編がネット上で話題になって、自分もそれで知った口です。

ネット上での話題の強調の仕方の特性もあり、やはり日本文化要素でのキワモノ映画、という印象で最初は自分も惹きつけられました。何せ「魔法少女」ネタですからね。
当然、映画の売り方もそれを強調することになるのは自然だとは思いました。

しかし、予告編を観て薄々怪しいと感じたことは、本編で確信になりました。ジャンル分けをあえてするのなら、「フィルム・ノワール」物とでもなるのでしょうか。
あるいは宣伝の手助けをしてしまうような、「魔法少女」ネタで暗さを持つ映画だから類似性として「魔法少女まどか☆マギカ」の名前がこの作品についての発言で多く散見されるのですが、そんなに短絡的というわけでもないでしょう。

それはある、カルロス・ベルムト監督のインタビューでの、日本文化からの深い影響からも分かります。

realsound.jp

それだけでなく、きちんと自分の中で消化し、その上でどういった「映画」を作ろうとするのか、といった姿勢が感じられます。インタビューの中でも、

ーーシーンが移り変わるときの“間”が通常の映画と比べて長かったのが印象的でした。

ベルムト:“間”というコンセプトがとても好きなんです。言葉で説明するのはなかなか難しいのですが、時間の中にある空間だと私は思っています。それは今も研究し続けているのですが、例えば、ひとつのシーンが終わって次のシーンに移るときというのは、機械的ではなく、物語がそこでどう動くかを最も含める箇所だと思うんです。日本はやっぱり“どう語るか”をすごく詳細に決めるので、その語り方に近いと思います。そういうことを意識して映画を作っている部分もありますが、これだけ日本文化に浸ってきたので、もしかしたら無意識に出ているかもしれませんね。

ーー撮影で意識したことはありますか?

ベルムト:撮影において、まず一番最初に意識したのは、構図です。フレーム内に人がいるという、非常に単純な構図になっています。構図については、私自身常に気にしている部分です。今回は、物語が非常に複雑なので、絵自体は非常に単純な、簡潔なものにしたかったんです。何台もカメラを置いて、いろんなアングルで撮るようなことはしたくなかった。単純な構図でシーンを明確に分かるようにして、あとは物語の複雑性をどのように映像として出すかというところにこだわりました。

実写手法で作られたアニメでもそうなんですが、こういった映像文法の考え方は個人的には好みでして、本編を観ながら、この監督は本物だ、と感じていました。その前提で、キッチュな、キャッチー要素である「魔法少女」や「黒蜥蜴」等をスパイスでまぶすのだから、作品の売り方も巧妙です。



というわけで、では具体的な感想は?なのですが、検索したら早くもある感想が上がっていたのでまずそれを取り上げます。

notesleftbehind.hatenadiary.com

まだ時期的に公開直後ですし、ネタバレ出来ないためにほとんど詳しくは語れないのですが、この方なりの大まかな感想は書いてくれています。


私の感想と言えば、まだ断片的なものにならざるを得ないので、ざっとツイートしたものを下に貼り付けておきましょうか。


これでもネタバレになっているかもしれません。


そういえば、初日初回の上映後、某メディアの出口調査を受けまして、了承してアンケートに答えたのですが、いきなりだったので緊張してしまい、上手く感想を言えませんでした。受けると分かってたのなら、ちゃんと考えたのに…。



追記。ここからはある程度ネタバレになるかもです。

bylines.news.yahoo.co.jp

bylines.news.yahoo.co.jp

以下、インタビュー引用。

●SMの館の車椅子の紳士には「闘牛は理性と感情でバランスをとっている」というセリフがあり、作品全編にも闘牛を感じさせる要素が盛り込まれていましたが、それはどんな意味がありますか?

闘牛は「理性と感情」の対立の象徴です。スペインの歴史において何度も起こった内戦は、宗教対立でも南北対立でもなく、すべての理由がこの「理性と感情」の対立です。選挙などを見ても分かりますが、スペインは今の時代にもこの問題を抱えているんですが、平和を保つにはこの二つのバランスがすごく重要だと私は思うんです。

闘牛は私の中ではそうした葛藤の象徴です。理性では「なんて残酷なんだろう」と考える反面、闘牛に関連すること、音楽のパソ・ドブレが流れたり華やかな衣装を見たりすると、どうにもならずドキドキしてしまうんです。


物語の中では数学教師のダミアンが「理性」を、文学教師のルイスが「感情」を代表していて、最終局面では彼らが対峙する、その際のダミアンの身支度の様子には闘牛士を思わせる要素を盛り込んだのは、そうしたことを表現したかったからです。

ですがルイスと対峙した時、結局は誰が「殺される牛」だったかと言えば「闘牛士」のはずだったダミアンかもしれません。闘牛士はスペイン人にとっての「男性性」の象徴ですが、彼はそれに囚われてしまうことで、「理性の象徴」であるはずが「感情の爆発」に負けてしまうのです。

このために、その後、ダミアンが、ステッキを持ち魔法少女ユキコの衣装も着て完全装備した少女アリシアと対面し、長山洋子の歌が流れる中、彼女の純粋な瞳に非難されているようにダミアンは一方的に感じてしまったのか、後ろを向けと言ったのにそれに応じないアリシアに、自分の哀情を叩きつけてしまう、「感情の爆発」に負けてしまう、ということだったのだろう。比喩的に言えば、「魔性の女」(ファム・ファタール)でもあり作品的には「魔女」であるバルバラは、ダミアンに対し、何度も私にとっての「守護天使」と言う。「守護天使」でもあり監督が言う「闘牛士」でもあるダミアンが、何の事情も知らない「魔法少女ユキコ」(アリシア)と対峙する。そう考えるとこの構図はかなり面白い。